おはしゃー日記

適当なことをゆるーく書き連ねます。

幸せってなんだっけなんだっけ

怪談の季節を過ぎた今、いちばん恐れるのはネット広告だ。blogを見たり検索してるとスマホの下のほうにしつこく表示される、あれ。その、漫画のワンシーンが表示されている広告に、心底ぞっとしている。

女子高生が二人、屋上で向き合う。いかにも漫画の主人公というようなぱっちりお目目のすらっとしたかわいい女の子と、伸ばしたんじゃなく伸びちゃったに違いない黒髪を振り乱し、ずんぐりとした冴えない女の子。どうやらこの二人、心と身体が入れ替わってしまったらしい。

「せめて家族や友達には、入れ替わってしまったことを知ってもらおうよ」と持ちかける中身モテ子に、中身地味子はかわいい笑顔を向ける。自分はこのままでいい、せっかく美しい身体を手に入れたんだもの。「その見た目じゃ大変でしょう?友達もいないし」と、ちょっと前まではそのかわいくない身体に魂をやどしていたくせに、もうすっかり他人事だ。だって、もう地味子はうまれかわったのだもの。他人の身体を手に入れて。

テーマとしてはありがちな入れ替わり。その何が怖いかというと、地味子の「幸せな人生送ってきたんだから、ちょっとは苦しみなよ」というセリフ。地味子がいままでどんな日々を過ごしてきたかは知らない。だが、幸せな人生を送ってきた人は苦しめばいい、という考えには、うすら寒いものを覚える。

私だって、美人に妬みたくなる気持ちはわかる。自分の見た目に絶望し、もし私が絶世の美女だったら、と悲しい妄想をし、虚しくなって余計に落ち込むこともある。実際、美人とブスでは生涯収入が違うらしい。賃金が高いだけでなく、食事をごちそうしてもらったり、プレゼントをもらったり、結構な経済格差が生まれることが統計学的にわかっているのだそうだ。ああ、うらやましい。美人は美人で大変なこともあると、理屈ではわかる。でも私は、美しさで悩んだことはないから、やっぱりうらやましい。美人は正義。

どう考えても、私はこの先もアッパークラスになることはないだろう。残念ながら、格差を感じることからは逃げられない可能性が高い。だからと言って、美人に不幸になればいい、なんてことは思わない。美人のその美しさを存分に愛でればいいじゃないか、というのはまた別として。

他人の幸せを素直に喜べない人は、案外少なくない気がする。
例えば、宝くじが当たった知人を妬む人。その知人がもし外れていたら、あなたが当たっていたのですか?そもそもあなたは宝くじを買っていましたか?
例えば、好きな芸能人の結婚報道を見て、必要以上に落ち込む人。あなたの好きなその人が、年老いてから孤独に苛まれるほうがいいのですか?あなたが添い遂げられるわけでもないのに。
他人が得をすることイコール自分の損のように、どこか勘違いしているような気がするのだ。二人のうちの一人だけが選ばれるような状況でない限り、そこに因果関係はないはずなのに。
私は、自分が好きな人が幸せなら、ともに喜びたい。なんかどうでもいい人が幸せなら、よくわからんけどよかったね。そのくらいのほうが、生きやすくはないでしょうかね、と思う。

「お前は今まで幸せだったんだから、これからは不幸になれ」なんてことは、考えるだけでも恐ろしいことだ。そもそも、自分の幸せと他人の幸せは別物。「あなたが幸せなら私も幸せ」という場合だけは両立するけれど、その場合も「私が幸せじゃないからあなたも不幸になって」という逆は成立しない。

この漫画の地味子は、とにかく卑屈なのだ。醜い醜いと思っているだけできちんと自分に向き合わず、あまつさえ他人の不幸を望む。これでは、ブスの風上にも置けませんことよ。ブス界のカースト制度の最下層、性格ブスだから。

人間は見た目じゃなくて中身だなんて思わない。中身が見た目にも現れるのは真実だと思う。だからこそ、見た目がだめなら中身を磨かなければいけないのだ。少しでもその内面が見た目に現れるように、ささやかな希望を持たなければやっていけない。ああ世知辛い。せめて心は綺麗であれ。

その一歩として、幸せを大切に生きていこうと思う。自分のも他人のも、小さなものも大きなものも、慈しみ感謝し、しっかり味わって喜んでいきたい。あー幸せー、と誰もが感じられるといいのにね。みんな、もっと、幸せになってしまえばいいと思うのだよ。

※広告の漫画は、川端 志季さんの「宇宙を駆けるよだか 」(マーガレットコミックス) だそう。
※読んでません。